院長コラム
Column

なんとかなる

2018年09月29日

先日、いろいろお世話になった母方の叔父が92歳で他界されました。最後の数か月は弱られて病院のお世話になりましたが、歳をとってからも身の回りのことはすべて自ら管理され本当にしっかりされていました。

まわりの人や親戚の人が亡くなっていくのは本当に寂しいものです。私が聞いた範囲で昔の思い出を振り返りながら心の整理をしたくなりました。個人的なことで恐縮ですが少々のお付き合いを。

私は祖父とあったことはありません。私の母もほとんど記憶にないそうです。母が3歳の時に他界したからです。

死亡診断名は十二指腸潰瘍ですので、今の時代でしたら死因としては考えにくい病名ですが、昔ではよくあったのでしょう。

祖父が亡くなった時、母の弟はまだ祖母のお腹の中で、少し歳の離れた叔父さんは小学生でした。母の弟は1歳の時になくなりました。死因は不明ですが昔の貧しい時代でしたのでおそらくは栄養不良が原因だったのでしょう。

夫の死につづいて子供までも失ったショックから祖母は一時的に精神的不安定になり働けるような状態でなかったそうです。そしてまだ小さな子供である母の4人の兄弟が残されていました。

家族離散の危機でしたが、長兄の叔父さんが家族のために働くことを決意しなんとかその危機を免れました。

その時から、叔父さんは母の兄でもあり、父にもなったのだと思います。私の知る限りでも祖母も母も大切なことはいつも父のように叔父さんに相談していました。

小学生あがりの子供がどのように収入を得ることができたのかは気になりますが、いろいろ助けてくれた人もいたのでしょうし、子供だから許されるような少しあやうい仕事もあったのかもしれません。

大変だったのではと聞いたことがありますが、「人生たいがいなことはなんとかなるものやで」と楽しそうに笑っていました。

家族のためにという想いは、小さな体とその心にも力をあたえてくれたのでしょう。

傍からみるとかわいそうというというふうに見えても、自分でしかできないとのだという環境は逆にやりがいと楽しさを与えてくれたのかもしれません。

戦禍がどんどん激しくなり、叔父さんも19歳の時に海軍に徴兵されることになりました。そして沖縄戦に向かう船の中で終戦を迎えたそうです。

命は船とともにあり、海に投げ出されても鱶(サメ)に食べられるだけだという教えだったそうです。終戦後、玉砕のための沖縄戦であったとしったそうです。

もし1日でも終戦がおくれていたら、母の運命も大きく変わっていましたので、私もこの世にはいないのだと思います。

語学が堪能な叔父でした。

終戦後にアメリカ軍の基地への物資の搬送をされたそうです。周りの人は鬼畜米兵と心配したそうですが、アメリカ人が愉快であることを知り、英語に興味をもたれたそうです。

働きながらも夜間中学、高校にも通われました。そして、大阪外国語大学(現;大阪大学外国語学部)を卒業されました。

夜間の学校に通って同大学に入学したのは今まで3人しかいないということで少々得意げでした。その後、外資系の貿易会社で働かれ、通訳業務などもこなされたそうです。

高校の夏休みに英語を何度か教えてもらったことを思いだします。どうしたら英語をしゃべれるの?と聞いたところ、

日常で自分が使いそうな良質なフレーズを繰り返し声に出すこと、一日の話した言葉を書き留めて英語に変換してみることと言われていたように思います。

「うちら日本語でもそんなに難しいことを話してないで。文法のこと考えて話しているやついるか?」の言葉が印象的でした。

実践的すぎて成績の向上に役立ったのかわかりません。しかしいろいろ話もでき楽しい時間でした。

晩年に母の兄弟で海外旅行にいった時には、叔父さんがすすんで通訳をするほど年を取っても責任感がありしっかりされていました。

多趣味で、一度こるととことんまで突き詰めないと気がすまない性分で、綺麗な風景写真を撮り、ハーモニカを吹くことが大好きでした。

亡き父と魚釣りにもよくいったようで、楽しそうに大漁の時の話をしてくれました。

亡くなる少し前に母と一緒にお見舞いにいった時に少し混乱していたのか、看護師さんにうちの娘と孫ですと紹介してくれ少し苦笑いしてしまいました。後で思い返すと心の奥底では年の近い娘と孫のように感じていたのかもしれません。

葬儀の棺桶の上にならぶトレードマークのハンチング帽、カメラ、ハーモニカをみて、あちらの世界でも楽しまれている姿を想像できました。

激動の時代に私の何倍も苦労したであろう叔父さんの生きざまをみて、いかなる苦境でも「なんとかなるで」という言葉は私の心の中に勇気を与えてくれます。改めてご冥福を祈ります。

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